アイヌ文化を取り巻く話題 AINU【1】【2】
知里幸恵の生誕の地、登別に記念館の建設をめざして
 「銀のしずく降る降る…」の一節で知られる『アイヌ神謡集』を書き残し、わずか19歳の若さで亡くなった知里幸恵(1903〜22)。その生涯と、彼女がめざしたことを未来に伝えるため、登別市に記念館の建設をめざす運動が始まっています。幸恵の姪であり、記念館建設募金委員会の事務局を務める知里森舎代表、横山むつみさんにお話をうかがいました。
 「知里幸恵は、アイヌの口承文芸であるカムイユカラを、ローマ字によって初めて文字にし、さらに美しい日本語へ翻訳した女性です。アイヌの言葉を次代へ伝えることを自らの使命として、短い命を燃やしました。幸恵が生まれたのは、今からちょうど100年前、ここ登別です。しかし、7歳で旭川のおばの元へ預けられたため、登別が生誕地であることはあまり知られていませんでした。1999年、北大大学院教授の小野有五さんが代表をつとめる市民グループ『北海道の森と川を語る会』が、幸恵の眠るお墓をお参りされたのですが、その出会いをきっかけに、地域の方にももっと幸恵のことを知らせなければという思いが強くなりました」
 さいわい横山さんの手元には、幸恵の母ナミが大切に保管していた幸恵直筆の手紙やノートなどが数多く残されていました。その資料をもとに、登別市内のスーパーを会場に展示とシンポジウムを行ったのが2000年9月。3日間の開催期間には、小説家の池澤夏樹さんをはじめ約800人もの方が、国内はもちろん海外からも訪れました。その反響の大きさに励まされ、横山さんらはその後毎年、幸恵の亡くなった9月にイベントを開催することにしました。そして、だんだんと知里幸恵の名前が地域に定着してくるにつれ、幸恵をしのぶ常設の場があるべきだ、という声が高まってきたのです。2002年に発起人会が発足し、いまは道内はもとより全国で記念館建設のための募金活動が行われています。

アイヌ民族の豊かな世界観を伝える『アイヌ神謡集』

 「その昔この広い北海道は、私たち先祖の自由の天地でありました」
 幸恵は生涯たった1冊の著書『アイヌ神謡集』の序文を、こう書き出しています。ユカラの偉大な語り手である祖母を持ちながら、苛烈な同化教育で日本語を強制的に押しつけられた幸恵は、17歳の時、アイヌ語の研究をしていた金田一京助(1882〜1971)の助言のもと、カムイユカラの記録を始めます。しかし、書き残したカムイユカラが『アイヌ神謡集』として出版されたのは、幸恵が心臓病で急逝して1年後のこと。完成した本を手にすることもなく亡くなったことを思うと胸が痛みます。
 「明治以降、政府はアイヌ民族に一方的に日本の文化と日本語を強要しました。アイヌの思想や文化などは理解しようともせず、偏見と差別を繰り返してきたのです。けれど、この本が出たことによって、彼らもアイヌの持つ豊かな世界観に初めて気づかされ、驚かされたのではないでしょうか。幸恵が亡くなって80年が経ちますが、この本が絶えることなく読み継がれてきたという事実が、そのなによりの証拠だと思います」
 『アイヌ神謡集』には、フクロウやキツネなど自然界の神々が一人称で語る13編の短い物語が収められています。一読すれば、自然に生かされてきたアイヌの思想や世界観が色濃く現れていることに誰もが気づくことでしょう。
 いま地球環境の保全が問われるなか、自然を大切にしながら暮らしてきたアイヌ民族など先住民族の暮らし方が、世界的にも大きな注目を集めています。しかし、ただその素晴らしい自然観や人間観に感嘆し、それを賞賛するだけでいいのでしょうか。北海道に暮らす人ならば、いえ、北海道に暮らす人だからこそ、近代の歴史を振り返り、過去アイヌ民族に何がなされたのかを、もう一度捉え直す必要があるのではないでしょうか。『アイヌ神謡集』と知里幸恵は、そのために、ぴったりの入り口になってくれるはずです。

登別の大切な財産として、若い世代と未来に幸恵を発信したい

 記念館の建設は、2005年の9月以降に計画されています。場所はいま横山さんがお住まいの登別川沿い、登別本町2丁目付近。横山さんが土地を提供し、募金額にあわせて建物の規模を決める予定です。
 「ここは幸恵の父母が暮らし、幸恵や、後にアイヌ語学者になった弟の真志保が生まれた場所です。ユカラの伝承者として有名な幸恵のおば、金成マツも晩年までの30年ほどをここで暮らしました。博物館などで数多く見られるアイヌ文化の展示は、過去のものという枠がはめられているような気がします。それとは違い、ここは現実の生活の場。過去の遺物としてではなく、いま生きている時代とつながる記念館をつくれるのではないかと思っています」
 横山さんのお住まいは、川が流れる土手の上、バードテーブルにさまざまな野鳥がやってくる雑木林のそばにあります。その場所に実際に立ち、100年前にここで生まれたと考えるだけで、古い写真のなかの幸恵がリアリティを持って浮かび上ってくるようです。
 「登別は温泉地として全国的にもその名が知られています。けれど、人物や文化を中心に考えてみると、パッと浮かぶ人がいません。幸恵なら地域の大切な人として、全国や世界へ発信する意味と価値があります。『アイヌ神謡集』の執筆という新分野に道を開いた幸恵の凝縮された人生は、きっと若い人たちの興味と感心をも呼ぶでしょう。修学旅行生には、日本のもうひとつの民族とその文化について学べる絶好の教育の場となるはずです。幸恵の生涯と業績などに触れながら、地元の住民とも交流を図れるような、そんな記念館にしたいと思っています」
 募金は個人1口1,000円、法人1口10,000円から受け付けているそうです。詳しくは知里森舎、横山むつみさんまでお問い合わせください。

◎知里森舎
〒059-0465登別市登別本町2-36-1
TEL(0143)83‐3677

『アイヌ神謡集』のもととなったノートを、
知里森舎がそのまま復刻しました。
「知里幸恵ノート」

横山むつみさん。
知里幸恵の弟、知里高央の娘さんです。

富浦墓地に、知里幸恵とおば金成マツの
墓が並んで建っています。

修復なった有珠聖公会バチラー夫妻記念堂。
バチラー八重子の歌碑が完成
 今年6月。有珠出身のアイヌ歌人で、キリスト教の布教活動に生涯をかけたバチラー八重子(1884〜1962)の歌碑が、伊達市有珠町の有珠聖公会バチラー夫妻記念堂敷地内と、同市のコミュニティセンター白鳥館に完成しました。碑は、八重子の生誕120年に向けた、市民からの募金で建てられたもの。中心となった期成会は、昭和20年代から30年代にかけ、かつて八重子がこの場所で開いた日曜学校に通っていた人々などが担いました。
 伊達市の指定文化財となっているバチラー夫妻記念堂は、1937(昭和12)年の竣工以来、60余年の歳月によって老朽化が進んでいましたが、2001(平成13)年の春から夏にかけて大規模な修復工事が行われています。その際、それまで利用されていなかった2階の空間には、バチラーの業績をしのぶ展示室が設置されました。展示室は、春から秋までの毎週土曜日には信者以外にも公開されているため、札幌など市外からも人々が少しずつ訪れるようになっています。また今秋、信者でなくとも結婚式が挙げられることが報道されたため、地域の資産としてあらためて注目される存在となりました。現在の司牧者である、苫小牧聖ルカ教会の雨宮大朔牧師は言います。
 「もともと教会は、信者以外の方にも開かれた場です。我々の理念に共感してくださり、信者の皆さんの了解が得られれば、結婚式も行うことができました。私としては、一昨年の修復工事とこの度の歌碑の設置によって、地域の皆さんに再認識してもらうえたことを、幸いに思っています。訪れる方には、なぜこの場所にこの教会が建っているのかをご理解いただければ、と思います」

日高・胆振の歴史に大きな足跡を残す、ジョン・バチラー

 それでは、建物に名を残すバチラーとは、どんな人物だったのでしょう。バチラー・八重子とはどんなつながりがあるのでしょう。
 ジョン・バチラー(1854〜1944)は、英国聖公会の宣教師です。明治初期に英国聖公会が北海道での活動を始めるにあたり、アイヌ伝道の責任者となりました。それ以前、彼は当初中国への伝道を志して香港で勉強を重ねていましたが、健康を害し、本国と気候風土の近い函館で療養の日々をおくります。そこでアイヌ民族を取り巻く不当な境遇を知り、この地を生涯の仕事の場に選んだのでした。
 1877(明治10)年から、日中戦争の激化に強いられて1940(昭和15)年にイギリスに帰国するまで、アイヌ語やアイヌ文化についての幅広い研究も行いました。伝道の第一歩は、平取、日高地方。身につけたアイヌ語による布教でした。やがて活動の中心を幌別や有珠に移します。幌別では、ユーカラの伝承者として名高い金成マツや、前ページで取り上げた知里幸恵らが信徒となりました。バチラーは、アイヌ文化の意味や価値を理解、敬愛し、人々の信頼と信仰を得ました。これは当時の時代状況においては、全く稀有けうなことでした。1893(明治26)年からは、現在地に記念堂の前身となる礼拝堂を建て、1906(明治39)年には、有珠の信者向井八重子を22歳で養女に迎えます。彼女が、バチラー八重子です。
 1937(昭和12)年、八重子の弟でアイヌ民族最初の聖公会司祭となった向井山雄が中心となり、老朽化した礼拝堂を建て直し、「バチラー博士夫妻記念礼拝堂」を建設することが決意されます。その年の秋には、有珠の噴石を使った、現在の重厚な石造り建築が竣工しました。雨宮司祭が言います。「建設の財源は、英国の縁者や東京の篤志家などからの献金、地元の協力が充てられました。礼拝用具を含めた内装は、有珠の人々が負担しました。この小さな丘は、海からも山からもすぐ目につくことから、土地の人がカムイタッコプ(神の丘)と呼ぶ聖なる場所でした。人々は、自らの大切な土地を師のために提供してくださったのです。また教会が竣工する前年の1936年、師は永年連れ添ったルイザ夫人を亡くしていました。この場所は夫人がことのほか愛した土地でもあったので、師は、この地にルイザさんの想いを残したいと考えたのです。ですから教会は、たくさんの人のさまざまな想いが結ばれて建てられたと言えるでしょう」
 今日まで伝えられている、竣工式典でのバチラーのあいさつでは、妻の強い信仰とアイヌウタリへの愛情を記念するものとして、夫妻が最初に建てた教会堂と同じ土台の上に記念堂を建てたこと。夫婦の記念堂という名前をつけてもらったが、もとより神の礼拝堂であること。教会堂の屋根の先端は常に天、すなわち信者たちの真の住みかを指していること、などが述べられています。屋根の上に立つ、円を組み合わせた十字架は、英国聖公会特有のケルト十字架です。

地域の歴史を刻み、明日への礎となる記念堂

 1954(昭和29)年から最晩年まで、バチラー八重子の活動と日常を写真で追ったのが、伊達高校の教諭を務めながら写真家として活動した、掛川源一郎(1913〜)さんです。当時は、噴火湾の不漁で漁村が疲弊。信者の足は遠のき、教会はストーブに焚く薪にも不自由する時代でした。そんな中、復活祭などの儀式から、冬に子供たちを集めた、自宅での日曜学校などまでを静かに追った仕事は、やがて「若きウタリに」(1964年)と題した写真集にまとめられました。記念堂の展示室で紹介されている八重子のポートレイトもその中の一枚です。
 「あの写真集には、実に魅力ある子供の写真がたくさんあります。八重子の歌碑を建てようと運動したのが、あのころの八重子にかわいがられた彼らだったように、この教会は地域にとって、宗教施設にとどまらない意味合いを持ってきました。現在でも、無償で花を飾ってくださったり、さまざまに奉仕してくださる方がたくさんいらっしゃいます。地域の方が大切にしていたいものとして、私どもの存在があるとしたなら、こんなにありがたいことはありません。その意味で建物の修復によって、皆さんの気持ちにある程度応えることができたのではないか、と思います。また八重子の歌碑の設置は、彼女の人生を末永く伝えながら、教会を懐かしく思ってくださる方の拠り所にもなると考えています」
 春から夏への教会は、毎週土曜日に一般にも公開されています。たくさんの人々の想いを集めたたたずまいにふれ、2階の展示室をのぞいてみてはいかがでしょう。

◎日本聖公会北海道教区有珠聖公会
〒059-0151伊達市向有珠町119
※4月〜10月は、毎週土曜日、10:00〜16:00一般公開中

70年近くにわたって地域の景観に溶け込む、
教会のたたずまい

門のそばにある、バチラー八重子歌碑

教会をあずかる雨宮大朔牧師
(苫小牧聖ルカ教会)

教会内部

2階にある、バチラーの業績をしのぶ展示室

2001年の修復工事で見つかった、
創建時の上棟式で納められた札。
牧師、棟梁、石工の名が記されている。

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